子供たちをリードしない。指導しない。

私が先生になりたての頃、先輩の先生によく言われたのが、
「子供たちをリードしない、子供たちに指導しない」ということでした。
もし、あなたが子供たちにそっちの方向に進んでほしいと望むのであれば、
手を引いて連れて行くのではなく、子供たち自身がその道を進みたい!と思うような工夫をしなさいって。
好き嫌いが多くて給食を残す子に、無理矢理「食べなさい!」と口の中に食べ物を突っ込んでも食べるわけがない。
計算が苦手だからやりたくないと言っている子に、無理矢理「やりなさい!」と言って、やらせても、やるわけがない。
両者ともに、無理矢理やらされたという事実だけが残る。
だとしたら、、
クラスで給食に食材を提供している農家の人や漁師の人の話を聞くとか、
給食を作ってる調理員さんに話を聞くとか、
世界の中では貧困で餓死している子供たちがいるとか、そういう面から子供たちに話してみる。
そういう側面からふと「残さず食べよう!」と思ったりするのが子供なんだよって。
カードゲームをしながら、勝ちポイントを加算していくようなシチュエーションを作るとか、
一緒に買い物に出かけて、全部でいくらぐらいするか予想を立てるとか、
計算ができないと自分が生活の中で困ることがあるんだなぁ…て実感させる。
そうすれば、子供は必要感に駆られて、必要な部分から習得し始めるかもしれない。
大人としては、子供たちにすくすく育って欲しいわけで、
その子たちが自分らしく生きていってくれることを誰もが願っていると思います。
だからこそ、あれやれ、これやれというわけだし、
「こっちの道の方が絶対あなたにとっていいよ」とか、
「こっちに進んだ方が、苦労しなくて済むよ」とか、そんな風にリードしたがる。
でも、結局は本人が納得したか、していないか、本人が自分でやりたいと思って選んだのか、
本人が自分の手でそれを1つでも進めたのか、ということにこだわらないと、
その「思い」も無駄になってしまう(無駄どころか逆にそのせいだと言われるほど悲しいことはない)と思います。
学習活動の中でも、そういう場面はたくさんあって、
困っているのかな?と思って手を差し伸べても「あぁー、僕、それやりたかったのに!」って言われたり、
何も手助けせずにいたら、それはそれで「あー、もう教えてくれなかったからできなかったじゃん」ってなる。
ま、子どもってそういうややこしいところもあるんだけど、その隙間的なところを探してアシストすると、
「自分の力でできたー!」って喜ぶし、大人も「その子の為に力になれたー!」って嬉しくなる。
その隙間的なところが教育なんだよね。
知りたい!やりたい!のタネをマナビノキに育てよう!

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